【こんなにも?】松尾潔さんの「ある語り」に当時のすごさを感じることに
【こんなにも?】松尾潔さんの「ある語り」に当時のすごさを感じることに
日本とアメリカの映画の話をしよう【松尾潔×竹田ダニエル】
(出典:現代ビジネス) |
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1 湛然 ★ :2024/03/15(金) 06:25:12.92 ID:s6SLpF769.net
3/14(木) 16:12 RKB毎日放送
https://news.yahoo.co.jp/articles/f12d5aa0cb5e576f2316178ae74d5e75eeab69c8?page=1
MISIA・宇多田ヒカルに代表される「ディーバブーム」。その流れをつくったのはUAの4枚目のシングル「情熱」だった、と音楽プロデューサーの松尾潔さんは振り返る。3月11日に出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で、「音楽の流れを変えた」とUAが世に出たときの衝撃を語った。
■MISIA・宇多田ヒカルが世に出る流れをつくる
52年前のきょう、1972年3月11日に生まれた歌手のUAさん。代表曲の「情熱」は、音楽の流れを変えた曲です。僕のような、元々アメリカのブラックミュージックが好きで、それをきっかけに音楽をつくる世界に入ってきた人間からすると、1990年代後半、特に98年のMISIAさんや宇多田ヒカルさんのデビューは、大きな出来事でした。
それを境にして「MISIA・宇多田ヒカル以降」という言い方をされることがありますが、実はそれ以前に、その呼び水というか、流れを作った決定的なヒットがあって、それが1996年にリリースされたUAさんの「情熱」なんですね。
この曲はUAさんと、大変優れた音楽家である朝本浩文さんが一緒に作りました。朝本浩文さんは北九州出身で、明治学園OBです。僕も面識がありますが、彼は元々、ダブと言われているジャマイカの音楽形態のMUTE BEATのキーボーディストとしてまず有名になります。
そんなアンダーグラウンドの有名人だった朝本さんがUAさんと組んで、90年代に全盛を迎えるサブカルチャーの匂いプンプンで表舞台に出てきました。R&Bとも似て非なる、サブカルチャー、クラブカルチャーの一つとして「R&B的要素が強い」という感じで出てきたのがこの「情熱」だったんです。
■スタートは藤原ヒロシがプロデュース
「情熱」は、UAさんの名前を一躍有名にしました。そのときUAさんは24歳、「情熱」は4枚目のシングルでした。当時、すでにUAさんは音楽業界で「この子来るよ」って言われていたんです。感度の高そうな、感性の鋭そうな歌い回し、それをスタッフ陣がバックアップしていました。
そして、彼女がデビューするにあたってプロデューサーを務めたのは、もともとファッションの世界でこの国を代表するような活躍をしているクリエイターの藤原ヒロシさん。いわば「藤原ヒロシpresents UA」っといった色合いが強かったですね。
デビューシングル「Horizon」は藤原ヒロシさん作曲プロデュース、作詞はUAさん自身。この曲で藤原ヒロシさんと一緒に音作りを担っていたのが朝本浩文さんで、のちに藤原さんがプロジェクトから離れ、朝本さんとがっつり組んで出したのが「情熱」でした。
■ディーバブームという大潮流を生み出す
UAさんの「情熱」は今もずっと語り継がれていますが、リリース当時オリコンでトップテンに入っていませんでした。ただ、すごく息の長いヒットになりました。その後MONDO GROSSOの大沢伸一さんが関わった「リズム」や、再び朝本さんと組んでの「雲がちぎれる時」、こういったものがどんどん世に浸透していきます。
UAさんの楽曲は、お昼にFMラジオから流れてきても、そこがまるでクラブのような感じになる、ある種の夜遊び感。それがお茶の間にうまく接点を見つけていくんですね。そして、UAさんにとって初めて、そして唯一のトップテンシングル、それが「甘い運命」という曲です。これも朝本さんが手がけました。
「甘い運命」がオリコンのトップテンに入ったのが1997年春。UAさんが96年の「情熱」から97年の「甘い運命」までの1年足らずの間に成し遂げたことは、その翌年からのいわゆるディーバブームです。宇多田ヒカルさんやMISIAさんを筆頭に、朝本さんが関わっていたSugar Soulなども。そういった大潮流を生み出していくわけですね。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)